ブログを書いていて、専門用語をどこまで使うかは悩みどころです。
少しでも専門用語を使うと読まれない、読まれても分かりにくいというのが通説で、なかなか専門用語を使っていく気にはなれません。
しかし、専門用語を使うことは、元々はその世界の構築を目的としています。
訳語の当て方の例から専門用語の領域的役割と日常用語へどこまで寄るかを考えてみます。
解体新書でのセイニーがどうして経絡でなく神経か
専門用語が領域群を示すのに役立つ例として、杉田玄白の解体新書の例をとってみましょう。
セイニー は今は、「神経」と訳されていて、この通り問題なく理解をされています。
しかし、この時代には西洋医学よりも知れ渡っていた漢方医学があります。
漢方医学に準じて考えれば、セイニー は、「経絡」として訳されるべきでしょう。
杉田玄白ももちろん漢方医学に長けていたでしょうから、経絡を知らないはずはありません。
ではなぜ新しい言葉を使ったかといえば、専門用語がその学問体系を構成するからです。
西洋医学という新しい風を入れたところで、それが今までの領域である漢方医学の中で使われている言葉と同じであれば、亜種程度に見られます。
新しい風を送り込めなくなるのです。
哲学の専門用語性への批判
しかしながら、専門用語も時間が経つごとに手垢にまみれてきます。
「神」「愛」「心理」「幸福」など、は発すれば目的にたどり着けるようで、何にも近ずけていない用語の例でしょう。
学問自体を否定するつもりはありません。しかし、人が生きることをよく考えるときに難しい言葉がどこまで必要か。
ウィリアム・ジェームズの哲学入門には、「羊飼いよ、汝自らの哲学をもつや」とあり。普段を生きる中での規範がどこにあってどこに進むかを考えるのが、現代で求められる哲学の方向性ではないでしょうか。
切り離された世界の構築で専門用語に寄るのか、日常用語に寄るのか。
身の回りの人の読みやすさ。生活へ密着した軸を考える。
これらを目的とすれば、専門用語よりも日常用語に寄って論を運ぶことがよいでしょう。
その際の注意点として、日常用語は日常用語として生活の垢にまみれた多義性を持っている点です。
伝えたことが本当に伝わるように、容易な言葉を上手に取り入れながら、ブログでは日常用語の割合を多めにして伝えていってみましょう。
【編集後記】
阪神百貨店、にぎわっていますね。場所を移動して以前の食堂街も出てきました。安く食事ができるので、嬉しい限りです。
【昨日のはじめて】
New阪神百貨店
【子どもと昨日】
食が進まないので、少しずつご飯をあげます。トドメとして、今日はさくらんぼをあげてみました。
酸っぱさとあいまって、気に入ってくれたようです。「んっ!」と指差しして、次を催促してきます。暑くなってくる季節。たくさん食べてください。