誰かのあらが見えるというのは、気分が良くないものです。
上司が指示をしている中で、失敗が見えるのは、どうしてこちらばかりに悪い指摘を押し付けるのかと感じます。
ただ、他の人のあらが見えるようになるのは、成長している証拠。
合理化のひとつの方向性として使いましょう。
見えることは、できることを証明する
他の人のあらが見えすぎてしまう場合、気持ちがよくないものです。
気づかなければよかったと考えても、気づいてしまったものは戻せません。
そういったときには、見えるということができることの証明につながることを意識しましょう。
常々できるということでなくても、気がつけるということは、対象物とそれ以外を区別できることです。
区別できることが知覚できることになります。
知覚をしっかりできているということは、あなたができていることのある種の証明になります。
見えていなかったものが見えるようになるとき
似た内容で、今まで気がついていなかったことに対して気がつくようになる場合もあります。
見えていないときには、知覚ができなかったということ。
先程の話であれば、対象物とそれ以外をちゃんと分けることができない状態です。
それが見えるようになるということは、できるようになったか、少しできるようになってきたといえます。
指摘をされて今まではそのまま言われっぱなし。
それが、その指摘がおかしいと気づけるようになってきます。
見えていないものが見えるようになったよい例です。
自分の良さを再認識して気持ちを保とう
見たくないものが見えたり、指摘をされたときに気づいてしまったり、気分が良くないこともあるでしょう。
自尊心が損なわれるようなときには、気持ちが沈んでしまうことにもなります。
でも、気づくということは、できることの証明でもあります。
気づくようになったということは、できるようになったことの証明です。
状況によってことなるかもしれませんが、自尊心を取り戻すには十分な材料として使えます。
他に自尊心を取り戻す材料がないときには、気づいた事自体を材料にしましょう。
成長の材料を見つけて、日々のコンディションを整える素にしてみましょう。
環境が変わったり新しいことに挑戦したり、何かの折の材料にしてみてください。