自分で自分のことを決定できるのはとても大切です。
当たり前のことではあるかもしれませんが、他の要素にそれを邪魔されることで再認識をします。
退職の交渉をする際に、辞めさせてもらえないという状況が人によってあるでしょう。
「辞めたいのに辞めさせてもらえない」、と。
外野から見れば、どうしてそうなのか疑問に感じるかもしれません。
ただ、責任感だったり経営者への恩であったり、辞められない要素も人によってあるのでしょう。
法律上は、雇用契約を労働者側からやめることができる旨があります。
当たり前の権利と考えていましたが、辞められない人を見ると、こういった自己決定ができる権利というものの大切さを見直せます。
辞められないのは奴隷っぽい
雇用主にはそういうつもりはないでしょうが、辞められないと奴隷っぽいです。
主体的に自分の行き先を決めることができないのですから、そこに主従関係があるように見えます。
実際には存在しなくても。
奴隷をなくそうというのは現代の当然の運動でしょう。
雇用関係における似たような状況をなくそうというのも、ここから当然の方向性です。
民法上の規定
民法では、やめることができる権利をこのように規定をしています。
民法627条
- 当事者が雇用の期間を定めなかったときは、各当事者は、いつでも解約の申入れをすることができる。この場合において、雇用は、解約の申入れの日から二週間を経過することによって終了する。
就業規則では、1ヶ月であったり2ヶ月であったり、これより長いことが多いですね。
それでも、争いになれば、会社と当事者の間のルールである就業規則よりも、民法の方が適用されます。
また、就業規則ができる限り守るルールとしてであっても2ヶ月と書いてあれば、2ヶ月で辞められますね。
でも、これを半年や1年という場合はどうなのか。
公序良俗違反
「引き継ぎの対象を探すのに、半年や1年待ってくれ」と交渉することはできるでしょうが、それが一線を超えて強制になると、公序良俗違反に当たるでしょう。
ここでは、基本的な権利を阻害するという意味での公序良俗違反です。
辞めたくても辞められない状況にならなければ、辞められるのは、当たり前の権利として感じます。
でも、辞めたいのに辞められない状況になれば、公序良俗違反と改めて感じるでしょう。
権利は侵害されて、その大切さがわかる部分なのかなと。
だからこそ、他の人の「自分のことを自分で決定できる権利」を大切にしてあげたいと、感じます。