論文を書く際には論理的な文章を書くように
努めている人がほとんどでしょう。
ただ、論理学を突き詰めると、正しい論理は
トートロジー(同義語反)の形となります。
A すべての宝石は輝く
→B ある宝石は輝く
のように、前提から当たり前のことを導く。
何を足していることにもなりませんが。
その意味では、単なる論理的な話だけでなく、
修辞的な領域に踏み込んでいくことが
求められる論文の書き方かもしれません。
伏線や積み上げは論理でなく修辞
伏線を立てたり、一つ一つのことを積み上げていったり、それを条件に、別のことを言ったりするのは、すべて、論理ではなくて、修辞学なのです。
修辞学は、確かに論理に反することもしばしば許します。
「彼は男だけど、男じゃないよ」というのは、明らかに論理(学)には反しますが、私たちは、そういう言い方で伝わるものがあることを認めています。
・・・文章を組み立てていくのは、すべて修辞学の領域であって、論理(学)ではありません。
「私のお気に入り -観る・聴く・探す」より
論理(学)と修辞(学)の話を抜き出してみました。
厳密な学問領域での話であれば、
論理(学)と修辞学は明確に分かれています。
でも、他の学問領域では修辞学を
論理として扱っているものも多いように
見受けられます。
どこまでの物語性が必要かはその論文の領域による
人によって、あるいは目的によって
どこまで修辞的に仕上げるのか、
論理性・修辞的に傾けて仕上げるかは変わってくるでしょう。
組織の中の文章は、論理学素人が読むことを
想定してかたいものにはしないです。
感性に訴えられるように、自然にわかる気配を
いい塩梅で取り込んでおくことが大切。
アカデミックと実務の間の論文を書きたい方は
論理性をあまり意識せずに修辞的に仕上げてくる
割合が高めでした。
良し悪しではなく目指している結論、
学問領域によって変わってくると
表しておくのが適当でしょう。
論理言語は明らかに人工語です。
修辞的な内容もそこからの派生を
理解しておく方が形になります。
まとめとして
「論理的になろう」とは言いますが、
本当の意味で論理的に文章を書いている方は
意外といません。
修辞的に書かざるを得ないにしても、
論理よりも修辞に力を入れて書ききってしまう方が、
上手な論理だと担当教員に褒めてもらえる
可能性があると、論理学の内容を見返していました。
そういう意味で、「論理的すぎる」必要もないのかもしれません。
真の論理(学)ではないです。
肩の力を抜いて書くのが合っているでしょう。
【編集後記】
採用関係の打ち合わせ。
市況は頻繁に変わりますね。
【運動記録】
ジョギングO ストレッチO 筋トレO サプリO
【一日一新】
とある予約
【子育日記(2歳)】
寝具の周りでかくれんぼ。
上手に上掛けを自分にかぶせて
隠れていました。父親としては、面白かったです。
そのあとの寝具はぐちゃぐちゃでしたが。。