サボることは、字面では推奨されません。
労働をベースに考えれば、雇用主から見て労働力を提供されていない形だからです。
待ちゆく声も雇い主側の目線に立ったものが多いので。
ただ、サボりは人間特有のものと考えられがちですが、動物もサボります。
ダメだとされるサボり、実は、合理化の結果ともいえます。
少し考えてみましょう。
サボるカンガルー
動物がサボる例では、カンガルーが群れのボスに戦っているフリを見せることがあります。
カンガルーは群れの社会で、雌を得るために雄は、自己を誇示するため戦います。
でも、戦っているのはボスの前だけということもあります。
ボスが見ていないところでは、意外とくつろいでいます。
その様子を見ると、とてもコミカルです。
戦うことはエネルギーが必要です。
自然界でエネルギーが潤沢に得られるわけではないので、戦いはできる限り避けるものです。
だから、形だけでサボりが入ります。
「群れのボスにならないと雌が得られないのではないか」と考えます。
ただ、ここでもサボりの延長が。
ボスが見ていないところで、このサボっていた雄は雌と交流をするのです。
ボスが見ていないので可能です。
先程の合理化の延長で、戦わないで雌と交流できるので、雄にとって合理的な行動といえるでしょう。
雌側にとっても、ボスの血縁だけが色濃くなってしまうことを防ぐので、他の雄との交流は利益になると考えられます。
人間のようにDNA鑑定がありませんので、生まれればわかりません。
もしかしたら小さなこんせきからわかるのかもしれませんが、他の雄の子だからといってカンガルーの子が殺されるということもないようです。
サボらないプログラム
労働者にサボることがあっても、プログラムはサボりません。
命令として書かれた通りにいつでも動きます。
動かないことがない、サボらないのはカンガルーとは異なるといえます。
でも、カンガルーの行動も、プログラムの命令結果も、合理化のひとつの形です。
サボるかサボらないかに違いはありますが、両方とも合理的なのです。
サボることへの抵抗感と合理化
カンガルーも労働者もサボるのは、目的を達成するための合理的なエネルギー配分を考えているわけです。
雌と交流が持てる最低限の範囲で、かつ、ボスから何も言われない状態を保つカンガルー。
一方、組織の行動原理がはっきりしていない労働者であれば、明示されたお題目に逆らわない程度の行動を行っておけば文句も言われず、エネルギーも使いません。
プログラムは、生がありませんので、単に命令通り動くのがその字のごとく合理的なわけです。
表向きが違うものも混じっていますが、どれも合理的な行動の結果なのです。
サボることへの抵抗感を持っている人もいるかもしれません。
でも、上記の例のように、サボることは合理化の一種なのです。
エネルギーを多く使う行為よりも、エネルギーは少なく使いたいというのが、生あるものの自然な動きです。
カンガルーの例からもわかりますよね。
ここから大切なのは、少ないエネルギーで目的達成のために動くのが自然の摂理であるということ。
サボるのは、自然な姿のひとつであるということです。
サボりは人間の特有なものでもないのです。
サボりへの抵抗感を減らし上手に目的を達成することを、自然界の例に従って、改めて考えてみましょう。
【編集後記】
大阪市立美術館のメトロポリタン美術館展 西洋絵画の500年へ。
けっこう混んでいましたが、予約が1時間枠で設けられているので、群衆のような感じにはなりませんでした。
ただ、企画開始の日の一番最初の枠で行ったので、そこそこの人が。
たぶん、美術好きの方たちばかりだったのではないかなと。
美術展はもともと話す人がほとんどいません。
みんな絵を眺めているので。
密やら感染リスクは少ない感じに仕上がっていました。
ルノアールの有名なものもあり、なかなかでした。
【運動記録】
ストレッチ○ 筋トレ○
【子育て日記(4歳・0歳)】
メトロポリタン美術館展で、どれが一番よかったかと聞くと、
「ねこさんがいたやつ」と。
ただ、子どもたちがザリガニをネコに押し当てている絵で、印象に残ったみたいです。