相手であったり場の雰囲気をよく感じる力というのは、役に立ちます。
特にファシリテーターは。
後天的にも身につけられるのでしょうが、気質のようなものもかなり反映されているのかなと。
ただ、感じ取った上で具現化するから、言葉にするからその認識が共有されます。
科学系の方は、具現化し、観測されようがされまいが、自然科学の法則として存在するものがある。
一方で、量子力学論のように観測されるかどうかでその結果が変わるとされる分野もあります。
人の場合に、具現化しなくても存在することももちろんあります。
この部分が、感じ取った部分。
そして、言葉にして固定化することで認識として共有される。
知覚の束として存在したものを共有することで、はっきりと知覚されます。
知覚されても、少し変えて共有すれば、方向性を変えることも可能です。
その場で流す力や後から流す力につながっていく考え方です。
感じ取る力
感じ取る力はとても大切で、ファシリテーターの個性といってもいいくらいです。
細かな気持ちの流れや気配りができるファシリテーターといると、安心感を得られるでしょう。
感じてもらえるというだけで存在を認められるものであり、否定をされていない状態です。
気づけば行動する責任があるとまで言うとちょっと大変ですが、気がつけるというのは行動するための基礎的な根拠になります。
表現するから存在する
知覚はちょっと変わっていて、感じ取ったものを言葉にする、何かに記録するからこそシェアされます。
文字であったり絵であったり。
表現されなければ、存在しなかったことになってしまう。
取捨選択が批判される場合も、メディアの表現において見られます。
ただ、こと、複数人の日常の集まりだったと仮定して、表現をされない状態であれば、ひとりの知覚が他の人の知覚まで達することにはなりにくいです。
表現するから固定化されます。
感じ取っても流す力
「感じ取る→表現する」で固定化されることになる。
であれば、日常の複数人の集まりにおいて表現するを差し控えれば、固定化されません。
いわゆる「流す」です。
感じてしまうのは、生きている上で避けられません。
ただ、自分の知覚にいちいち反応してそのすべてを伝える必要性がいつもあるわけではないです。
流してしまうことで、円滑にいくこともあるでしょう。
家族や身近にいる大切な人とでさえ、全てを訂正して理解し共有しあって進むには、時間が足りないはずです。
感じ取っても流してしまう、その幅を調整することで、方向性を建設的にしたり大切なことに集中させることが可能ですよね。
ファシリテーターのように進行をしていなくても、この調整は可能です。
会の進行において、重要な事に集中することを改めて意識して、しゃべりたいから以上の全体を見る上で、小さく流すことを改めて見直したいです。
【編集後記】
事務所の掃除用具を新しく買い直しました。
キレイに保つ上で、ちょっと気分転換です。
【運動記録】
ストレッチ○ 筋トレ○
【子育て日記(5歳・1歳)】
アンパンマンミュージアムに行こうとしていたのですが、コロナ感染が判明してしばらく閉館です。
子どもへの説明が大変かと思いきや、「コロナ知ってるで」と言われ、すんなり理解してもらえました。
ウィルスの概念が難しいかと想像していたのですが、新型コロナウィルスの説明が子どもにいらない世界がすでに始まっているようです。