「XX学」と「XX論」は異なります。その違いから、幸福論はあっても幸福学なるものがありませんでした。「ありませんでした」と表現しているのは、幸福学の研究が書籍で出ていたからです。
「学」と「論」の違いは気になるものの、幸福へのアプローチ方法を提供したいという想いは良いものだったと理解しています。
「学」と「論」の違いに加えて、アプローチ方法の一部を紹介します。
「XX学」と「XX論」との違い
ある僧侶の心の動きの記述と社会学(統計的アプローチ)への批判
社会学(統計的なアプローチ)が哲学的なアプローチから分化する際の批判として、個々の気持ちを統計的なアプローチが補足しうるかという点がありました。
枝葉を落として本当に見たいものを記述すると考えれば、統計的なアプローチは個人の気持ちを表しきれません。
幸福とは、その定義自体があいまいであり到達への学が成立し得ない
幸福論で有名なものはアランやラッセルのものですね。
この幸福論、なぜ幸福学ではなかったのでしょうか。
それは、学とは知識の体系的な連なりであり、求めうる幸福が主観的で体系化できないものである以上、学とはなり得ないのです。
だから、幸福論となり、幸福学ではないのです。
幸福学(前野隆司氏)を読んで
さて、「学」の語彙からは幸福学が存在しないと考えますが、最近は幸福学という書籍も出ております。
幸福学はないと自分の考えを述べましたが、書籍ででいる幸福学とはどのような考えで述べられているのでしょうか。
幸福の定義は人それぞれ
幸福学を考え上での根幹になるものは、幸福が一体何かということでしょう。
しかし、筆者も幸福が人によって違うことを認めています。
また、一般本としてわかりやすいように、幸福の定義を広辞苑から引いていますが、本当にそれで足りているといえるのでしょうか。
酒やドラッグで得られる幸福感とは違うと区別したものの、学として進めるには確固とした定義が必要です。
だから大家のアランやラッセルの書籍でも論という表現になっています。
幸福の定義があいまいな幸福と相関分析をどう結びつけるのか
幸福の定義があいまいな上で、どうやって相関分析を結びつけているのでしょうか。
到達点がはっきりしない上で分析をかけても、はっきりしない答えが出てくるのではないでしょうか。
国際間の幸福の比較の難しさ
国際的なアンケートにおける定量化の難しさはご本人も説明してくれています。
語彙が一対一関係で訳されてアンケートされないと、国際比較は無理です。
しかし、共約不可能性から考えてもそれは無理です。
一例で取り上げれば、「きっぱりとした」がポジティブ感情を測るモノサシの言葉になっています。
しかし、「きっぱりとした」が日本人がポジティブ感情になっているのでしょうか。なっている人もいれば、ならない人もいる単語ではないでしょうか。
著者はそのほかに、Life Satisfactionが生活満足度なのか人生満足度なのかによってアンケート結果に大きなズレが出てくることを指摘しています。
収入と幸福
論理ではないですが、年収7万5千ドルを越えると年収と感情的幸福が比例しないという点は、働き盛りの人から見ると面白い論点でしょう。
メカニズムへのアプローチであって、本質へのアプローチとはしていない
幸福学は、幸福へのアプローチの学であって、幸福の本質へのアプローチではないようです。
学術論文を読ませてもらっていないのでこの区分けがマッチしているかは分かりません。
しかし、幸福へのアプローチを考えたい人の参考になる書籍でしょう。
因子紹介
本書の中で紹介されている、四つの因子が幸福へ到達するものとして紹介されています。
- 「やってみよう!」因子
- 「ありがとう!」因子
- 「なんとなかなる!」因子
- 「あなたらしく!」因子
これらが相関関係なのか因果関係なのかは悩ましいところです。
因果関係がはっきりした幸福へのアプローチをぜひ知りたいです。
個人的なアプローチ
書籍の中で幸福へのアプローチとして個人的に役立つものをあげてみます。
寝る前記録は自己の中の幸せの定義としては有効か
その日の幸福度を◯△×で記述し、「個人的な」原因を考察する。
「学」としてという話はおいておいて、個人の幸福へのアプローチを探求するのであれば面白い手法です。
ピーク・エンドの法則
幸福の本質的なところを示してくれています。
幸福は、「持続時間」ではなく、「ピーク」と「終わったときの程度」で決まる。
初恋などの性質で、悪いことや短い期間であっても、「ピーク」と「終わったときの程度」によって良い記憶として残っていることが一例です。
人を幸せにすると自分も幸せになる
下記の言葉はアインシュタインのもののようですが、その他の著名な方々も、与えた量があなたの幸福度をあげるという趣旨の言葉を残してくれています。
人の価値とは、得たものではなくその人が与えたもので測られる
長年を得ただけあって、働いて得てきた知見が入っている
幸せへのアプローチを提供したい筆者の心意気が、この学問体系を作るきっかけになっています。主観的な学問の重要性を説いている。
客観的な連なりが「学」であるというこちらの指摘は、語彙としては合っていても、それ以上の意味は持てません。
働いてきて得た幸福への知見も入っており、主観的な要素があるにせよ、アプローチとしてとても面白いものでした。
結局自分で積み上げることがアプローチになる
幸福への道が自分で積み上げていくアプローチによるものということはその通りでしょう。
哲学的な考察ではいつも、「到達したもの」が測られるのではなく、「通ってきた道筋」も含めてその価値が判断されます。
得たものが同じでも回り道をすればしただけ別の価値が生まれるのです。
もし、回り道をしていても哲学的なアプローチであればその分価値が増えたことになりますよ。
【編集後記】
少し暑さも和らぎ過ごしやすいですね。月も変わってまた気持ち新たに今月スタートしていきます。
【昨日のはじめて】
とある卸売店
【子どもと昨日】
キッチン用品を見に行きました。普段は台所は危ないものが多いので入れないせいか、鍋のフタをとっては置きとっては置き、を繰り返してました。鏡面処理もしてますし、危なくない範囲であれば金属は子ども面白い素材ですね。