- インターネットで検索されるなら、検索者がわかる言葉を用意するべきだ
- 単純化して、結論を最初に持ってくるべきだ
- 図解をしよう
などなど。
わかりやすいことが求められます。
それ自体批判されるところではないにしろ、単純化の欲求が高まっています。
特に二元論への誘惑は強いです。
正義か悪か、白か黒か。
はっきりした結論やストーリーの解釈が求められます。
ただ、はっきりした答えでは語り尽くせないものが現実にあるという実態も、わすれてはいけません。
わかりやすさがすべてか
わかりやすいことがすべてなのでしょうか。
科学のように、その要素を取り出して原理原則をシンプルに説明する。
原因と結果が存在する。
因果関係がはっきりしている。
こういったものが必ず存在しているという考えを持って話をしている場合を多く見受けます。
ただ、単純化して話をするような科学でさえ、複雑系が存在します。
ひとつひとつの動きは説明できても、複数集まると別の挙動をしたり、予測が難しくなると。
目的論的自然館はまだどこにもたどり着いていません。
すべての変数が把握できれば、未来が予測できるというような考え方です。
また、映画では正義や悪がはっきりしていることが多いですね。
悪役の方は悪をしっかりと突き進んでくれます。
でも、現実世界ではそうではないでしょう。
一方の立場から見れば「悪」と表現するべきかもしれませんが、理由があるときも。
その方には、親や家族やペットがいるかもしれないです。
それらの方にとっても、悪役ではないかもです。
単純化して二元論化したい欲求はありますが、それが現実を正確にとらえることにつながらないことがあります。
現象学的あいまい
現象学の表現もこのようなあいまいな感じが強いです。
事象の表面をたくさんなでるような表現で。
人が捉えること自体が外面的な切り取りをほどこした状態。
そういった作為的な状態の前でつかむ、現れるものの背景ではなく、その現れ自体をつかむ、という感じです。
原因と結果という感覚はここにはありませんね。
わかりにくいことからの決断
因果関係がはっきりしている。
だから、AとBのうちAを選ぶ、というのは簡単です。
でも、因果関係がもこもこしてわからない。
複雑系のようにもみえる。
因果関係自体が間違いかもしれない。
人生のうちではどちらの場合が多いのでしょう。
分野もアプローチも限られていない生において、後者の方が実態に合っているのではないでしょうか。
二元論に落とし込んだほうが結論は出やすいです。
でも、それを許してくれることは多くないです。
二元論の誘惑には駆られます。
「原因はなにか?」と探したい。
「悪いのは誰か?」、「責任は誰にあるのか?」と。
もちろん、そういう場面もあるでしょうが、生活の中ではその答えがわからないこともあるのです。
誘惑には駆られつつ、現象としてとらえ判断するというのも、異なるアプローチで意義があると考えます。
因果関係がわからないような難しい問題において、試してもらえるといいかなと。