正しい答えを探していることはありますか? 問題を考えるときにそもそも解けるかどうか分からないものもたくさんあります。数学の証明問題を見ても、平気で「解なし」を出してきます。
生きている上で解く問題において、同様に「解なし」が出てくるのも当然です。また、解く問題かどうかということも考えるところです。資金や時間の制約もあるので。
独立時に問題を解くべきか、仮で進むべきか。仮で進む大切さについて考えてみます。
哲学者の思想固定化
哲学書を読んでいても答えがある感じを受けません。一定の方向性はあります。しかし、実存主義を中心に、確信に迫らないような内容で話を進めている場合があります。
すでに著者が亡くなっている場合に、相手に真意を問うことはできません。著作によってその片鱗を解釈します。解釈は、対話法というフェアな感じを超えて、影を相手にボクシングをしている感じです。
このように亡くなって相手が考えられなくなったら、一定の答えがあると言えるかもしれません。
完成とはなにか?
この場合、今を悩んでいる人がどのようにして完成に至ればいいのでしょう。自分の人生が終わるまで答えがでないで、満足でしょうか。
日本は案外とみんなきっちりしているので、研鑽を辞めず途中の答えは途中の答えと謙遜する方が多い印象です。そしてこのやり方だと、完成は死後になります。他の国であれば、「思想が完成した」という言い方を10代くらいから平気でするかもしれません。
そんな日本的なあなたは、完成を近づけるようにします。その方法は、「仮で」とか「暫定で」とかを付けるのです。それだけで、現在のところの答えが完成します。
自分の答えは仮でもいい
人生は挑戦の連続です。新しい経験を積めば新しい見方もできます。新しい見方を求めなければ、そのように先に進めないなら、経験するモチベーションも減ります。
自分の答えは仮でいいと考えて作っていくことを「今」を決められます。信念、大切なもの、などなどあると考えの柱になるものは、「仮」でいいので、答えを作ってみましょう。
【編集後記】
本として執筆していた内容が、商品に付属して販売されることになりました。
【運動記録】
ストレッチ○
【子育て日記(6歳・2歳)】
ゲーム熱は出てきますね。節制させつつ、興味が出たことはさせてみています。私はだいぶ前に終わってしまっているのですが、どこかで一緒に楽しめればいいなと感じることがあります。折を見て、一緒にしてみようかなと。